食品表示の歴史
戦後物資不足の中、様々な商品が出回りました。
特に空襲の際に大量に投下された焼夷弾ではこんな事が…
焼夷弾はその威力を増すために、派手に燃えるマグネシウムで弾頭の外装は作られていました。
マグネシウムは昔、ストロボの代わりに燃焼発光されていたぐらい派手に燃える金属です。
その不発弾を利用したマグネシウム鍋をアルミニウム製と偽り、
やみ業者が販売していた、そんな時代…
食品も、かなりいい加減な物が売られていました。
特にアメリカでも日本でも問題になっていたのが牛乳。
アメリカでは生産された牛乳より遙かに多い量の牛乳が販売され、
社会問題となっていました。
日本でも戦後アメリカの影響を強く受けた政策で、
栄養素として学校給食で広く推し進められたのがパンとミルク。
しかし牛乳はそれまで庶民にはなじみが無く、
明治から始まっていた生産も昭和になり機械的な生産も始まりましたが、
規模も今ほど確立していませんでした。
その為、製造年月日も入らず殺菌方法もまちまちな上、
アメリカでも横行していた薄めている様な牛乳が出始めました。
そんな食品からまずは子供たちを守ろうと、1948年から食品表示が始まりました。
1947年 食品衛生法が制定
1948年 食品表示制度開始 製造年月日の表示など
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1950年から牛乳の大量殺菌技術が高度に機械化して、ようやく生産が安定してきました。
この安定した牛乳生産に支えられて伸びてきたのが、乳児用の粉ミルク(代用乳)。
しかし大手三社での競争が始まると、
価格競争に負けまいと生産時に食品添加物として使用されていた第二燐酸ソーダの質を、
ある会社では一級品から工業用に落としてコストの削減を始めました。
第二燐酸ソーダは乳製品の凝固を防ぎながら、ミルクを溶けやすくさせる大事なph安定剤でした。
しかし工業用として産業廃棄物から再生された第二燐酸ソーダは純度が低く、
猛毒であるヒ素が混じった状態だったため
粉ミルクを飲んだ子供たちの中から1200名以上の中毒患者と、
130名を超える死者(事件後一年未満で)をだしました。(森永ヒ素ミルク事件)
この事件をきっかけに1957年に食品衛生法が改訂され、
化学合成されたものは指定したもの以外には添加できない事になりました。
1957年 食品衛生法改訂
しかし、戦後から日本は抜けだし飽食の時代が始まると、
化学の進歩と共に砂糖の数百倍という甘さを持ち、
非常に単価の安い人工甘味料が食品に添加される様になりました。
しかし、しばらくするとその発癌性や催奇形性などの毒性が問題になりました。
特にチクロは1960年代には、子供の食べる菓子やアイスなどに大量に添加されていたので非常に問題になり、
その後、1969年に使用禁止になりました。 (チクロ・紫蘇糖・ズルチンなど)
その後、食品添加物は急激に増え続けました。
1991年 添加物の全面表示を義務化
1995年 消費・賞味期限表示を義務化
それまで製造年月日表示で個人の常識や認識で消費されていました。その表示が食品により変化する、自由度の高い消費期限、賞味期限に変化しました
2000年 生鮮食品に原産地表示を義務化
ヨーロッパでオーガニックがさかんになる中、国内消費と海外輸出の残留農薬制度を使い分けるダブルスタンダードを持った国からの農作物など、農作物の食の安全が問題になりました。
2001年 加工食品の原材料表示を義務化
アレルギー表示を義務化
アナフェラキシーなどの重篤なショック症状に陥ることもある、アレルゲンの表示が始まりました。
2013年 食品衛生法とJAS法と健康増進法の法律を一元化へ?
現在検討されているのが消費者庁に『食品衛生法』消費者庁、『JAS法』農林水産省、『健康増進法』消費者庁と分かれている食品表示の法律を一つにまとめようとする法案。
これが通ると一括で、消費者庁が握ることになります。
2015年4月 いよいよ、食品表示法が施行
今までJAS法、食品衛生法、健康増進法に分かれていた食品表示に関する法律がこの『食品表示法』に集約されました。
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